今日の本213(聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた)
おはようございます。今日は入学式ですね。小学生がぴかぴかのランドセルを背負って歩いているのを見ました。桜は葉桜になっているのが少々残念です。毎年思うのですが、一週間早くできないのかなぁ・・・と、桜の満開の時期に入学式だと最高だろうなぁと、思います。今日は晴天です。いい晴れ舞台になりそうですね!!おめでとうございます!!
今日の本は、井上真偽さん、聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた、です。
#kokkoさんの今日の本 #井上真偽 #聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた
【夾竹桃の枝には、人を殺める毒がある】
何一つ思い通りにならない人生の中で、
思い通りになる選択権が一つあるとすれば、
それはいつ、その人生を下りるかだ。
その権利を行使し、与えられた舞台の役を下りる。
勇敢に。果敢に。華々しく。
その英断に拍手を送りたい。
私にはとても真似ができない。
単純に怖いから。
痛いのが嫌、苦しいのが嫌。
自分の存在が消滅して消えてしまうのが怖いから。
結局私は強くなれなかった。
権利を行使した彼女らが戦士なら、私は奴隷。
何一つ自分から変えようとしない。
何一つ自分で戦おうとしない。
彼女らに救いを求めること自体烏滸がましい。
でもそんな私の願いは届いたのだ。
これから私は変われるだろうか。闘えるだろうか。
婚礼の場で同じ杯を回し飲みした主催者のうち、毒死したものと何ごともなかったものが交互に出る「飛び石殺人」が発生した。不可解な毒殺は祟り神として祀られた聖女の奇跡なのか。あるいは・・・。それに挑むのは、あらゆるトリックを「見抜く」のではなく「否定する」探偵、ウエオロジョウ。奇跡の実現の証明を生きがいとしている。
「やったこと」ではなく「やっていないこと」を証明する。
いわゆる、「悪魔の証明」である。
被疑者を糾弾する側は、その犯行の「可能性」を示唆するだけでいい。
被疑者を弁護する側は、その「可能性」が存在しないことを示さなければならない。
「可能性」など、水道の蛇口のように、捻れば捻るだけ出てくる。
”人知の及ぶあらゆる可能性を全て否定できれば、それは奇跡と言える”
それは、とんでもなく徒労な手法だ。
「容疑者は高々・・・七十億強。有限だ。」
考えられる犯行可能性をすべて挙げていき、逐一しらみつぶしに排除していけば、
最後に、否定しきれない可能性が残るのだ。
なんと馬鹿げた台詞だろうか。
確かにそれは真理。
これがこの探偵に最低限保障された、奇跡の証明までの道程。
少なくとも理論上は到底可能な、奇跡の証明の構成方法。
だがそれを。
それを人は、不可能と呼ぶ。
彼がなぜそこまで奇跡にこだわるのか。
彼はいつか奇跡にたどり着くのだろうか。
夾竹桃には人を殺める毒がある。
けれどそれは身を守るための毒だ。
過酷な生存競争に打ち勝つために、必死になってその身に恐ろしい毒を行き渡らせた。
その大切な枝葉を、貪欲な動物たちに食い荒らされないために。
その大切な幹根を、無遠慮な虫たちに無残に蝕まれないために。
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